E椶離團薀潺奪匹  雄岡山、雌岡山(神戸市西区神出町)





以下、写真番号は、鳥瞰図上の拠点の位置に付けた番号に対応しています。






鳥瞰図 (地図はゼンE鵐泪奪廚茲E用)



 11憲娠4E∋笋虱志三人は、播磨の名山のひとつという”雄岡山”に登った。
 名山といっても、標高250メートE頬たない小山なのであE、このあたりの平原の中にあっては目立つ存在で、真西に約二キ螢E疹E蠅砲△E瓢鷁山”とペアーをなす御神体山として、古来よE仰さE討い申蠅任△E

 その謂E箸靴討蓮古代、この地に”スサノオノミコト”と”クシナダヒメ”が空から降Eち、地元民に農耕などを教えたというのだ。ゆえにこのE咾蓮◆豹製弌鼻閉名として残E砲噺討个EE茲Δ砲覆辰燭蕕靴ぁ
 そして、この二神と、その子オオナムチノミコトを祭E燭瓩痢豹製仗声辧匹、”雌岡山”山頂に設けらE討いE

 E、”雄岡山”のほうは、土地の権利の関係もあってか、山頂に祠が昔からあって、そE近年建て替えらE燭曚は、原生林のままであり、山の周囲、特に三木街道側からは住宅の進出が中腹まで及んでいE、そE奮阿麓E佞ずという状況であり、休E魯ぅーが何組か行き来すE度であE
 もう数十年も前に、この山腹で水晶が出E箸いΔ海箸任困い屬鷽佑入ったらしいが、今でもE困な名残はあE箸靴討癲△△┐萄侶,靴茲Δ箸いΩきはないようだ。


 とこ税、”雄岡山(おっこさん)”と”雌岡山(めっこさん)”は、我々の調べで、どうやら”E椶離團薀潺奪鼻匹箸いEEE類のものであE海箸判明した。
 その理由はこうであE

 まず、”雄岡山”のE腓任△E(写真1−1)

 雄岡山(写真1−1)

 登山道、つまE斗茲砲い参道は、ほぼE召ら山頂を目指すものとなっており、こE郎でも歴然としていE海函覆笋篌惺圓呂澆蕕EE)。

 (写真1)

 山頂には、現在、石製の祠が建てらE討いE兵命殖院砲、元は形のよい石が置かE討い燭蕕靴ぁそE鯏初、木製の祠を笹醒て安置していたというのであE、祠が朽ちて後、石は撤魚正E燭發里蕕靴ぁ
その石が、形の良い神体山の冠石としての”岩座”であったことになりはしないだ畝か。

 また、山頂のそのE蠅ら、廿臾にも道らしいものがあった。だが、いずE眦喘罎泙任靴その形跡はなく、北のものは原生林で覆い隠さE廿昔ものは途中から水流の通E擦伐修靴討討い拭だが、つい数十年前までは、廿昔細田地区に下りE擦呂弔い討い燭畔垢。
 つまり、山頂を中心にして、E焼臾に、下降道がついていたとみらEEE韻任△E

 また、西から山頂に登E傾臾槁婉瓩瞭擦力討法△△燭蠅砲呂泙辰燭みらE未茲Δ福⊇鳥優瓠璽肇E横1メートE高さ1メートE曚匹竜霎个あった。(写真2)

 (写真2)

 そE蓮∋阿弔寮个料箸濆腓E擦里茲Δ任△蝓△修E元はE弔世辰燭箸垢E弌二か所で切断さE燭海箸砲覆E世畝。しかも、そのE腓寮擇Eの方角が問題なのであE0E弔賄E召諒角に切らE△泙燭發Δ劼箸弔脇臾の方向に切らE討いE海箸、磁石で測ってみて分かった次第だ。・・・三つに分かE心筺兵命殖押法ΑΑΔ修E鮟弔妨たもの(写真2-2)・・・切Eは人工的(写真2-3)

 (写真2-2)
 (写真2-3)

 よって、この七合目付近にあE霎个蓮△いE罎E品位石”といEEE發里任呂覆いと考えらEE里任△E

 では、ペアーであE箸澆覆気E討た”雌岡山”のE腓呂匹Δ。(写真3-0)

 雌岡山(写真3-0)

 この山は、神社があった関係か、前者に比べて人跡が多く、車道も山を取Eく形で整備さE討いE(鳥瞰図参照)
 しかし、古来からの参道の跡は、未舗装のまま残さE討いE山頂からE砲箸E擦函廿就北方向への道は、蛇行しながらも、ふもとまで残っていEまた、西への道は、後述の”にい塚”までは残さE討い拭
 つまり、この山も、E焼臾に、山頂を目指す参道がつけらE討い燭海箸砲覆畝か。

 ピラミッドとみなさEE海箸いΔ發里蓮∋佑弔諒角に面した側面に、謎の古代祭祀の意味付けが残さE討いE發里任△E
 たとえば、参道の存在はひとつの重要ポイントであ畝。
 また、山頂、および、その側面の適当なE蠅法◆百篋臓匹梁減澆盡逃せない。

”雌岡山”のE隋∋劃困痢豹製仗声辧鼻兵命殖-0)のすぐE戮法環状列石に似た配置をすE八つの石があった。いずE眤腓さは高さ0.5から1.5メートE糧楼呂らい。(写真3:向こうは神出神社)

 (写真3)*ビデオからのもののため不鮮明

 こE元の岩座であったものか、そE箸蘯凖詑け弔虜櫃法位置を変えたものなのか。はたまた裏の社殿の見えない中に、もっと肝心の大きな巨石が隠E討いE里どうかは不明であE

 その山頂から、北の道を下りていくと、七合目付近に、社殿のない”姫石神社”が、巨石組の岩座として鎮座していE(写真4)

 (写真4)

 こE蕕竜霎个蓮高さ二メートEらいを最大に、大小様々であE、どこか整形さE心兇あEたとえば、写真中央の岩などは、上部は平べったく、下すぼみの船の形をしていE(写真4-2) 祭壇として機能していたものであ畝か。

 (写真4-2)

 また、姫石よEしE鵑E發澆法◆浜臉仗声辧匹あE社殿裏に隠さE心篋造箸いΔ里任△畝か、そこには男根と女陰の形に整形さE神个、無数の貝殻に埋まE茲Δ飽唾屬気E討い拭(写真5)制笹祚代は後世のもので、古代岩座の部類のものではないようだが、もしかすE帆或氾な岩座がこのE蠅砲△辰燭發里もしE覆ぁ

 (写真5)

 また、山頂から、西側七合目付近に、御旅所があり、その中央に、”にい塚”と名付けらE慎霎亰欧あE(写真6)
 長方形の棒状のあE度の大きさに加工さE燭と思EEE真瑤寮仭箸澆蓮¬技┷昔ようであっても、塚の頂上から廿臾方向に並べらE討いE茲Δ任呂覆い。(写真6−2)

 (写真6)
 (写真6−2)

 つまりこE癲EE痢品位石”とはいえないだ畝か。
 ならば、両山とも、対象形に構図さE燭塙佑┐蕕EE瓩呂△E(鳥瞰図参照)

 真のE召吠造崙鵑弔了魁I弦發任い┐弌◆浜魂山”が241メートE紡个掘◆瓢鷁山”が249メートEこの差とは、自然の創造によE箸垢E砲鷲埃然すぎはしないだ畝か。

 また、気がついたこととして、”雄岡山”のほうは、特定のE蠅膿緇修含有さEE箸いζ団Г呂△辰討癲⊆Уぐ枉EあまりみらE覆い里鉾罎戞◆瓢鷁山”のほうは、どのE蠅砲いても磁気異EみらE燭海箸任△Eつまり、磁石では方角が確認できないということ。

”雄岡山”は、形としてまだしもとしても、”雌岡山”のほうは、そのなだらかすぎE舛箸いぁ△箸討皀團薀潺奪匹塙佑┐蕕E修Δ別婿ちはない。
 また、両山とも、その形を風化から守畝としたとみらEE蛭巴曄匹筺豹絶得弌匹覆匹痢∪个鯔笋畊む技法は使EE心兇呂覆ぁ

 しかし、以上のような特長を備えた”神体山”とは、黒又山、皆神山、葦岳山などと同趣旨で笹千E震霧きがあE隼廚Δ里任△E

 識者はどのようにお考えになE世畝か?






P.S    その後、土地の古老(現在80才くらい)の話を又聞きすE海箸あった。

そE砲茲E函△海領昌海蓮∈では池になっていE箸海姓らE兇E凝擇魃燭鵑任て造らE浸海任△E箸いΑ(地図参照) 池は灌漑用池となり、運河で繋がっていE箸里海箸任△Eまた、ここでは七十年くらい前まで、山上で雨乞いの神事などが行EE討い燭蕕靴ぁ

たとえ高さが低いとはいえ、この土木工事は、途方もない規模であっただ畝。この地の伝説にあE茲Α▲好汽離鬚了代の事業とすE弌∋笋慮纏記の解釈はまんざら間違いでもないようであE

スサノヲの眷属のオミヅヌの神の国引き神話。またその他彼の眷属には、治山灌漑関連の神々の名が列記さEE伐鮗瓠フノヅノ=とんがE魁淵團薀潺奪鼻法▲侫謄潺漾瓩匹辰靴E魁淵泪Ε鵐鼻法▲侫フチノミズヤE魯福瓮瀬燹⌒漑池、等々。 

古代のまだ遥か前に、あちこちからマウンド造りの土を集め、大地の営みを整えた神々と古代人たちがいたこと。昭和58年製の記EA href="yaegaki.html">「八俣の大蛇と出雲八重垣」から汲み取っていただけたら幸いです。




雄岡山上空UFO撮影例(ムラ氏提供)


謎の発光体


両山周辺を低速飛行した、逆三角UFO




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風変E篝彙桔


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